聖ヴィンセンシオ・ア・パウロの愛徳姉妹会の歴史

140 rue du bac私たちは今 愛徳姉妹会の総本部に来ています。愛徳姉妹会の歴史とシスター達のつながりを見てみましょう。1633年に創立された愛徳姉妹会は、聖ヴィンセンシオと聖ルイズの協働によって生まれました。1830 年のカタリナ・ラブレへのおとめマリアの出現と不思議のメダイの広がりによって、愛徳姉妹会と宣教会において驚くべき召命の刷新が行われ、召命への大いなる熱意が再び戻ってきました。

 何年もの間、会は創立者の精神、
すなわち謙遜、単純、愛徳の精神で その奉仕を続けてきました。
今日、愛徳姉妹会は五大陸に散在しています。


 愛徳姉妹会

会は17世紀にフランスで 聖ヴィンセンシオと聖ルイズによって創立され、教会において「貧しい人々のはしため、聖ヴィンセンシオ・ア・パウロの愛徳姉妹会」という名で呼ばれています。
autre苦しみと貧困に深く心打たれたヴィンセンシオ・ア・パウロは、裕福な夫人たちに援助を願い、いち早く慈善のわざを組織することに着手しました。そのような慈善組織で 婦人たちがすることの出来ない低い仕事をするために、マルグリット・ナゾートいう田舎娘がヴィンセンシオのところにやってきました。彼女は福音的な愛で、もっとも見捨てられた人々に仕えました。その模範が次々伝わって  人知れず 愛徳姉妹会が生まれました。1630年以降、ヴィンセンシオ神父は, 種々の慈善組織で献身する最初のシスター達の養成をルイズ・ド・マリヤックに託しました。1633年11月29日、 そのシスター達は兄弟的な共同体の中でルイズの指導を受け 会の理想を生きるために、ルイズ・ド・マリヤックのもとに集まります。まず町や村の貧しい病人の家を訪れて世話し、次第に病院の病人、教えなければならない少女、捨てられた子供たち、ガレイ船奴隷、負傷兵、難民、老人、精神病者…を世話するようになりました。今日、この国際的な会は 全大陸の94カ国に広がっています。

DSC_0076愛徳姉妹会会員は、兄弟的生活を営む共同体の中で神にすべてを捧げ、見捨てられた人々が自立できるよう世話し、同伴し、一人ひとりに近い存在となれるよう、自己の生涯を捧げます。

« 十字架につけられたイエスの愛が私たちに迫る»というモットーから力を汲みとって奉仕する会員たちは、人道的および社会的な分野で広範囲の活動に従事し、正義、平和、連帯のためにも働いています。社会の変革と向上だけでなく、人々のニーズのためにも力を注いでいます。  その理由で、愛徳姉妹会会員が従事している奉仕は、絶え間ない変革と適応を目指しています。

愛徳姉妹会 総本部(所在地):Maison Mère des Filles de la Charité
140, rue du Bac – 75340 Paris Cedex 07
www.filles-de-la-charite.org


聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ

DSC01898リュ・ドユ・バック(Rue du Bac)が聖ヴィンセンシオ・ア・パウロと関係があるのに、私たちは驚きます。ここは、1633年にヴィンセンシオとルイズによって創立された愛徳姉妹会の総本部です。その上、ご存知のように多くの聖人が輩出しています。聖ヴィンセンシオは、カタリナが神秘的な夢を通して愛徳姉妹会に招かれるという過程で 大切な役割を果たしました。さらに, ヴィンセンシオ神父の遺骸の荘厳な移転が1830年4月25日に行われたのは、カタリナがパリの修練院に到着して数日後のことでした。自分の召命を導いてくれた司祭の遺骸移転に臨めるとは、カタリナにとって何という幸運でしょう。リュ・ドュ・バックの聖堂で祈っている時、聖ヴィンセンシオ三日続けて 毎回違う色のご自分の心臓をカタリナに示します。それは、カタリナに彼女の使命を果たす時が近いことを知らせるためでした。重大な日が訪れます。聖ヴィンセンシオの祝日の である1830718日、無原罪の聖マリアに対するヴィンセンシオの愛について という 講話を聴いて、カタリナのうちに聖母マリアに会いたいという熱い望みが湧きます。その熱い望みを取り次いで下さるよう 聖ヴィンセンシオに祈りながら、カタリナは眠りにつきます。そして、天使が彼女を眠りから目覚めさせます。


聖ルイズ・ド・マリヤック
ste Louise聖ルイズは おとめマリアに対する大いなる愛をもって生きていました。彼女は言います。「聖なるおとめマリア、私はあなたのものです。完全に神のものになるために」と。
神の母が原罪の汚れなく宿った方であることが教会において論争の的になっていたにもかかわらず、ルイズはそれを堅く信じ、そのことが認められ祝われることを願っていました。なぜなら« 聖なるおとめは、神にとって常に唯一の喜ばしい存在だからです。» ルイズの願いで、愛徳姉妹会会員はロザリオの各連の終わりに短い祈りを付け加えて祈ります。それは、聖堂の丸天上に金文字で書かれている祈りです。 « この上なく聖なるおとめよ、私は信じ、公に宣言します。あなたが聖なる方、原罪なく宿られた方であることを。 »

1644年、 聖ルイズはシャルトルに巡礼し、愛徳姉妹会を聖母に捧げます。ルイズの霊的遺言の最後の言葉は、彼女のマリアに対する信心を表しています。 « 貧しい人々をよく世話しなさい。主のご生涯と聖三位の一致に倣って  互いに愛し合い、とくに大いなる一致と真心をもって ともに生活しなさい。そして聖母にあなた方の唯一の母でいて下さるよう よく祈りなさい。»


聖カタリナ・ラブレ

Catherine Labouréカタリナ・ラブレは1806年5月2日、ブルゴーニュの村、ファン・レ・ムティエで生まれました。 農場主の父ピエール・ラブレと母マドレーヌ・ラブレの間に生まれた10人の子供ものうちの8番目です。母マドレーヌが46歳で亡くなり、家族は悲しみに沈んでいました。カタリナは泣き崩れ、椅子に上って聖母像子を抱き、聖母に言うのです。 «今から、私のお母さんになってください»と。
24歳になった時、カタリナは多くの障害を乗り越えて、パリのリュ・ドユ・バックの愛徳姉妹会本部に来て、養成を受けます。その数か月後、1830年7月19日、初めて聖母はその聖堂でカタリナに現れ、一つの使命を告げます。二度目の出現があった その年の11月27日には、カタリナにメダイを作らせる責任をもたせるために、メダイが啓示されます。

翌年、カタリナは修練を終え、当時パリの南東にある貧しい町はずれのリュイに配属されます。そこで生涯 老人の世話にあたります。他方、世界中でメダイが不思議な速さで広がって行きます。1876年12月31日、カタリナ・ラブレは安らかに息を引き取ります。「私は天国に行き、主と主の御母、そして聖ヴィンセンシオにお会いします。」1933年、カタリナの列福の折、リュイの聖堂の地下埋葬所が開かれ、カタリナの遺体が 腐敗を免れていたことが分かり、リュ・ドユ・バックの聖堂に移され、地球儀の聖母像の祭壇の下に安置されました。